メインメニューを開く

Uncyclopedia β

早良親王

早良親王(さわらしんのう。750年?〜785年)は、奈良時代末期の皇族である。光仁天皇の皇子であり、桓武天皇の同母弟。生前よりも没後にその勇名を轟かせ、恐れられた人物である。現在でも崇敬を集め、市橋達也などに影響を与えた。

藤原種継暗殺事件編集

早良親王は光仁天皇の息子とはいえ母親の身分が低く、到底皇位などは望めないとみられていたが、同母兄の山部親王が即位(桓武天皇)すると、一躍時の人となり、立太子されることとなった。しかし、これが早良の悲劇の始まりであった。

桓武天皇は次第に自分の息子である安殿親王(後の平城天皇)の皇位継承を望むようになり、早良のことを邪魔に思うようになっていた。天皇の寵臣であった藤原種継もその意を汲み、早良親王と親しい大伴家持らと対立するようになっていた。そのような中で起きたのが、この藤原種継暗殺事件(785年)である。その頃には既に死んでいた大伴家持であるが、死体にむち打って立ち上がり、自ら首謀者となって、早良親王即位の邪魔をしていた藤原種継を暗殺したのである。悲しんだ天皇は大伴氏を粛清するとともに、早良親王もこの事件に関わっていたということにして皇位継承者から外しただけでなく、流罪としたのである。
しかし、早良親王は無実であった。聞く耳をもたない兄に対して、自らの無実を訴えるために選んだのは、絶食という手段であった。淡路島に流されるまでの間、一切の食を断ったのである。その結果、大阪あたりで彼は餓死することとなった。

なお、この「無実を訴えるための絶食」という手段は、後に市橋達也が真似をしたが、無実でなかったためか、2週間で断念することとなった。本当に無実でなければ、ここまで苦しい抗議ができるわけがないのである。

怨霊としての活躍編集

怨霊となった早良親王は、以下の人物を殺したとされている。

殺害の第一波
坂上苅田麻呂 - 786年没。享年59歳。藤原種継とともに長岡京造営に携わった有力豪族。
藤原旅子 - 788年没。享年29歳。桓武天皇夫人。藤原百川の娘。
石川名足 - 788年没。享年60歳。藤原種継暗殺事件の際には尋問する側として活躍。
大中臣子老 - 789年没。享年50歳前後か。藤原種継とともに長岡京造営に携わった有力豪族。
橘清友 - 789年没。享年32歳。種継の事件との関係は不明だが、不自然なほど若死になので、怨霊によるものとみられる。
藤原是公 - 789年没。享年63歳。藤原種継暗殺事件の際の太政官の最高実力者。黒幕の可能性あり。
高野新笠 - 790年没。享年70歳くらい。桓武天皇及び早良親王の母。寿命という説もある。
藤原乙牟漏 - 790年没。享年30歳。桓武天皇皇后。藤原良継の娘。
坂上全子 - 790年没。享年不明。桓武天皇の妻の一人。苅田麻呂の娘なので30代か。
佐伯今毛人 - 790年没。享年72歳。もとは大伴家持の盟友であったが、種継暗殺には加わらず。ただし、これも寿命という説がある。
殺害の第二波(大規模化。海外に拡大)
ファストラーダ - 794年没。享年29歳。フランク王国カール大帝の王妃。
藤原帯子 - 794年没。享年不明。平城天皇妃なので20代か30代くらいだろう。
藤原小黒麻呂 - 794年没。享年62歳。藤原種継とともに長岡京造営に携わった有力豪族。
ハドリアヌス1世 - 795年没。享年90歳以上か。ローマ教皇。寿命という説もある。
藤原継縄 - 796年没。享年69歳。藤原種継暗殺事件の際の太政官のナンバー2。是公とともに黒幕の可能性あり。
ヒシャーム1世 - 796年没。享年40歳。後ウマイヤ朝のアミール(王)。
大中臣諸魚 - 797年没。享年54歳。藤原種継派の有力豪族である大中臣子老の弟。
藤原真友 - 797年没。享年55歳。藤原是公のもっとも有力な息子であった。
紀古佐美 - 797年没。享年不明。60代か。紀氏は反大伴氏とみられ、早良とも関係がよくなかったか。
コンスタンティノス6世 - 797年没。享年27歳。ビザンツ帝国皇帝。

その他、疫病の流行や洪水などがこの時期相次いだ。

また、794年には中国雲南省で皆既日食が発生し、796年にはエジプトで大地震が発生(この時アレクサンドリアの大灯台が半壊)した。

これら様々なことが早良親王の怨霊によるものとされ、怖れられたのである。

しかし、それこそ濡れ衣なのではないだろうか?

関連項目編集

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「早良親王」の項目を執筆しています。