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新潟県の道路

このページでは、新潟県道路について説明する。

目次

背景編集

新潟県は元来道路を通すのに適さない場所である。その理由は冬のにある。新潟県の山沿いは世界でも第一級の豪雪地帯であり、かつ毎日のように吹雪くため、そもそも外に出歩くこと自体が困難な環境にある。その降雪をもたらす要因のひとつとして、背後に急峻な中部山岳が連なることが挙げられる。険しい山並みもまた、道路を通すのに極めて困難であることは容易に理解できる。

沿岸部は日本有数の水田地帯である越後平野のイメージが強いが、しかしすべて平らではない。中部山岳の迫力に霞んでしまっているが、弥彦山ですら標高634mもある。そしてモータリゼーションが進んだ1970年にようやく完成した弥彦山スカイラインも、急勾配で九十九折が続くような道とせざるを得なかったほどなのである。

そして海上交通もまた困難を極める。冬の日本海はときおり8mを超える大波が打ち寄せ、猛烈に時化るのである。その時化た海から舞い上がる「波の花」が新潟県の冬の風物詩になっているくらいである。

そんな事情から、越後の民はこと交通において大変忍耐強くなり、あらゆる天険難路をものともしない玄奘三蔵のようになった。そして新潟県にはカイバル峠函谷関に匹敵する道が多く存在するのである。

江戸時代以前編集

越後国自体は非常に豊かな国として知られる。中でも歴史上、越後国随一の功労者は上杉謙信であろう。当時同じく戦国大名の太田資正は、「謙信の代になって越後の民衆の生活水準が劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主である」と高い評価を下しているらしい。もっとも、現実は戦乱の続く関八州から逃げてきた連中をこき使い、さらにはその戦乱に長期にわたって介入することで、内輪もめが激しい越後の引き締めに成功しており、確かにその政治手腕は賞賛に値するものの、実際、介入されるだけされまくった上州、北信濃の住民にとってはまったくたまったものではない。しかも、両者とも上杉ではなく、武田と北条が悪いことになっているんだから始末に負えない。ちなみに、この時代、越後国は米の一大産地となり、豊かな都邑が築かれたのも、結局は一年の半分から3分の1の期間、降雪で他国が手出しできない平和と、雪が降っている間、まるで出稼ぎのように関東に出陣、越後をより平和な国として、農民ほか商工業の担い手を他国から積極的に招きいれた結果である。

ゆえにこの頃から、国内の主要な街道が整備されたものと思われる。三国街道や北国街道も越後国内では随分整備されたとされている。

だが武田信玄と何度も鎬を削りあった勇将謙信が、果たして国外へ通じる道を整備したであろうか。答えは否である。信玄は周囲の山々と家臣の団結をひとつの大きな城と考えていたと言われているが、謙信とて同じことであり、周囲の天険難路こそが自国を守る砦であると考えていたに違いない。ゆえに、越後から外への道は自国の強卒と他国からの棄民のみを辛うじて通す道しかなかったと思われる。

あわせて、越後の雪深い山道にどんな街道を整備したところで、たかが知れている。21世紀になってすら、越後国と他国の県境は、豪雪で通行止めになるのが常識である。

また、国内においても充実した道路網が整備されたのは平野部のみである。江戸時代に書かれた鈴木牧之の『北越雪譜』によれば、冬季に山道で雪崩にあったまま春になるまで見つからなかった村人の話、同じく山道でクマオオカミに襲われる人の話、2人の旅人が道中遭難して弁当の有無が生死を分けたという話などが記されているのである。隣の村、ひどい場合には隣の集落まで行くのも命がけなのであった。

明治時代編集

だが時代が明治となり、富国強兵殖産興業が謳われるようになると、全国を繋ぐ一級国道が整備されるようになる。そんなときに辣腕を振るったのが、当時「鬼県令」と恐れられた三島通庸である。またの通り名を「土木県令」というほど、彼は道路の開削に腐心した政治家であった。三島は新潟県令になることはなかったが、周囲の山形県福島県栃木県で県令を務めたこともあって、新潟県の道作りにも大きな影響を与えた。

三島が手がけたもののひとつが、現在の国道49号である。今でこそ新潟市と福島県いわき市を結ぶ幹線道として、また阿賀野川の渓流を横目に走る観光道路として人々に親しまれているが、山深い渓谷に道を通すことがどれほど大変なことかを想像してみてほしい。当時はもっぱら舟や筏で行き来し、山には僅かに人の踏み分けがあるようなところに、立派な馬車道を通すのだ。重機などなにもない時代、人の手で急峻な斜面に石垣を組み、深い山谷を高巻き、あるいは橋をかけ、そして隧道を掘り抜いたのである。

三島のお陰で幹線は徐々に整備されることとなったが、彼の手も生活道路にまでは及ばない。そこで新潟県民は自らの手で隧道を掘り、峠を整備した。明治時代初期の隧道というものは全国でも珍しいものであるが、新潟県には集落と集落、集落と街道を繋ぐためだけの手掘り隧道があちこちに残る。あるいは、天皇陛下の巡幸に合わせて、住民自らが峠道を拡幅し、あるいは一から開削してしまった例もある。まさに新潟県民恐るべしといったところである。あわせて、新潟県民の精神的支柱であるのためであればなおさらで、新田の開拓のために山をぶち抜いて農業用の隧道を掘りぬいた逸話は、それこそどこにでも転がっている。

昭和時代編集

昭和の時代にも三島のような辣腕土木政治家がいた。新潟県出身の田中角栄である。彼もまた、故郷新潟のために多くの道を通した。

その結果、新潟県全体が過疎に悩みまくり、彼が作った道路&鉄道をストローのようにして吸い出された新潟県人が、東京都における最も人数の多い他県人の座を独走したとしても、新潟県人は彼をいつまでも称えている。

彼の残した功績のひとつが全長22km以上に及ぶ上越新幹線大清水トンネル(長さは当時世界一)である。その長さに加え湧水と豪雪により工事は困難を極めた。プロジェクトXでの放送も決定的と思われていたが惜しくもその座を青函トンネルに奪われている。もっとも、青函トンネルを掘りぬいたのは、後述する親不知にトンネルを通した技術者たちであったりもする。そして、見事プロジェクトXリベンジを果たしたのは、関越自動車道関越トンネルである。こちらも全長11km超と長さ日本一である。トンネル工事に絶対の自信がある熊谷組の技術者らをも窮地に追い込んだ大変な難工事を要したトンネルとしてこちらも名高い。

そして、もう1つ、新潟県における難工事の代表格ともいえるのが、北越急行ほくほく線において、世紀の難工事と呼ばれ、世界中の技術者達からも注目された松代町(現十日町市)における鍋立山トンネル工事である。元から豪雪地帯の上、地すべりが頻発するほど地盤がもろく湧水も頻発、地元民からは「豆腐の山にトンネルを掘っている」とまで言われた難工事は、実は開通後に掘った場所が泥火山であることも判明した上、天然ガス噴出&石油も出るでよ!という超絶な場所だったことが判明。1974年の工事開始から次々と最新のトンネル掘削技術を導入しまくってもしまくっても、トーフが崩れて豆乳が噴出し、ついには平均して1日20cmしか掘り進めないという年も経験するほど世界に冠たる日本の技術をあざ笑ったこの難工事だったが、21年目にしてようやく実を結ぶことになり、2010年現在は金沢市と東京都を結ぶ主要路線としてにぎわっている。

一方でやはり、生活道路は取り残される。だが新潟県民は強かった。ちなみに補足しておくと、田中角栄が出てくる以前から、東京都内で銭湯豆腐屋を営む者には新潟県民が多かったと言われている。銭湯というのは毎日大量の薪割り(のちにボイラーの手入れ)や広い風呂の掃除などがある大変な職業である。豆腐屋も、氷が張るような真冬にもまだ暗いうちから冷水に手を入れて仕事をしてそれを方々に売り歩く、これまた大変な職業である。多くの者がそういった仕事に従事するくらい、新潟県民は辛抱強いのである。分かりやすく言うなら、その程度の仕事は地元の雪よりもマシなのだ。

 
十日町市旧松代町の雪中隧道。昭和30年代になって、山間の集落を結ぶ長さ220mと400mの2本のトンネルが掘り抜かれた

そんな彼らは、戦後日本においても鑿と鶴嘴で隧道を穿っていく。磯部定治『越後洞門 手掘隧道物語』にも紹介されている魚沼市の稲葉隧道も、戦後になって住民たちが鑿と鎚とダイナマイトで掘り進んだ隧道であった。映画監督の橋本信一が感銘を受けて後に映画化された旧山古志村の中山隧道のほか、羽黒隧道などこの手の隧道には枚挙に暇がない。もう一度繰り返すが、これらはみな、行政や土木業者とは無関係に近隣住民たちが掘り抜いたものである。

まぁ、冬になって道路が閉ざされるとそれぐらいしかやることがなくなるというのも事実である。

それは、昭和の時代には雪中隧道も多く作られることにもつながる。長岡市十日町市、魚沼市において、冬季の積雪や雪崩を避ける目的で掘られた雪中隧道もまた、その多くが近隣住民の手によるものである。裏を返せば、自らの手でトンネルを掘らねばならぬほどに新潟県は雪深く、また陸上の交通に不便と危険を強いられていたのだ。

その後、行政の手により、山奥のそのまた奥の村々まで舗装道路が通じるようになったのは、時代が平成の世に下がってからであった。なお、新潟県中越地震新潟県中越沖地震が連発して、周辺の道路で無数の崩落や陥没が生じるなど、今の世にあってもなお新潟県の道路は苦難が続いているのである。

代表的な道路編集

親不知編集

 
親不知の「天嶮」。かつて人々はこの波打ち際を往来した。ちなみに冬は大時化になる
 
「一桁国道」ながら狭小な親不知の道。あまりの狭さに車が擦った跡がたくさんある

今や箱根に代わる難路の代名詞ともなっているのが親不知である。北海道に蝦夷親不知という場所があるほどだ。北アルプス連峰がそのまま海に落ち込むこの場所は文字通りの断崖絶壁が続き、かつては僅かに磯辺の飛び石があるかどうかというほどの道であった。その昔、ここを通過するときに「親は子を忘れ、子は親を忘れる」とまで言われた。

今でこそ自動車道が整備されているが、それでも自動車が陸上交通の主役となりつつあった1967年に、時速30km、幅員狭小という条件で片洞門(道路の幅の半分だけ外に出ているようなトンネル)のような特殊な造りでなんとか片側2車線路を通した程度であった。1988年までこんな極悪な道路を使用せざるを得なかったほどに過酷な地形なのである。おまけに6%の急勾配でΩ字カーブを持つ。天下の一級国道(国道8号)なのだから、もう少し走りやすい道にしたいに決まっているのだが、地形の制約が大きくてこれ以上改良の余地がなかったのだろう。

より大きな土木構造物を造る技術を手にした現代では、北陸自動車道は海上に長大な橋を架けることでこの難路を制し、北陸新幹線はより山側に何キロもの長さの長大トンネルを掘ることで通り抜けようとしている。どちらも大きなコスト増となるが、そうでもしない限り、この親不知に高速交通路は通しえないのである。

なお、親不知随一の難所と言われる場所は、その名も「天嶮」である。天嶮を経て初めての平地、そこは「浄土」という地名である。この地名をもってしても、この地がいかに難所であるかが分かる。

八十里越編集

 
八十里越。このような山岳の峠道が続き、平成の世でもなお16kmが徒歩道のままである

新潟市と福島県いわき市を結ぶ国道289号の一部区間の名称である。越後山脈を横断することから険路が続き、八里の道が八十里のように長く感じられるとのことからこの名がついた。近くには「六十里越」もある。

この道の歴史は古く、かつては峠に茶屋が設けられ、戊辰戦争の舞台ともなった。しかしそれ以降も馬車道を通すにはあまりに厳しい地形、おまけに大規模な雪崩の頻発地帯であることもあって、前述の三島県令でさえも手に負えなかったのである。そのため、現在でさえも登山国道(一部区間雪崩により喪失)という有様である。

隣の六十里越でこそ1973年にようやく完成を見たが、それもトンネル、覆道の連続という。八十里越も将来的に長大トンネルをぶち抜くことで自動車を通す計画があるというが、結局そうでもしないと現代の技術力でも車を通し得ないのである。

清水国道編集

 
清水国道通行不能区間のごく一部が、画像の左から右に横切っている。通行不能区間11kmはずっと深い山の中にあり、雪崩と崩落と潅木の繁茂が続く

日本の穀倉である新潟県と、その一大消費地である東京圏を結ぶ馬車道を作ろうという国策によって、新潟・群馬県境に造られた道である。地理的に近いことに加え、工事の困難さと力の入れようは現代の関越トンネルに匹敵する。

だが4年の歳月を経て完成し、大々的に開通式が行われたその道は、その年に大規模な土砂災害と雪崩によって全線不通となり、そのまま破棄されてしまう。当時の名残で今も国道291号に指定されているが、徒歩での交通もほぼ不可能である。廃道巡りを趣味とする者の中でもとくに全国的に名の知れた者が、完全登山装備でガチンコで挑戦しても一度では突破できないほどの荒廃ぶりという。

この場所に高規格の道を造ろうとしたのがそもそもの間違いであるのかもしれない。ここは『北越雪譜』の舞台であり、川端康成の『雪国』の舞台である。冬になれば雪が4,5mくらい簡単に積もる。おまけに多くの大きな沢があり、鉄砲水、岩崩れなどが日常的に発生するのである。そのことを学んだ後の世の人々は、新幹線でも在来線でも高速道路でもすべて長大トンネルで山脈を丸ごとぶち抜くことにしている。

なおこの清水国道は、上で紹介した通行不能区間以外にも徒歩でなら通過できる区間が比較的長く存在する(通行不能区間11km、徒歩区間16km)。この徒歩区間は谷川岳を掠めていくわけであるが、谷川岳というのは遭難死者数世界一の記録を持つ山である。

奥只見シルバーライン編集

 
こんな僅かな明り取り(外に出ることもできない)を挟んで、全長3kmと4kmのトンネルが連続している

新潟県魚沼市と福島県只見町を結ぶ観光道路である。観光道路とはさぞや風光明媚な場所を見ながら走るのであろうと思えば、その実、全線22km中18kmがトンネルという常識外れの道である。

もともとは電源開発株式会社が奥只見ダムを造る際に通した道である。深い深い山中への資材運搬用の道ではあるが、その道を作るにも3年の歳月と延べ180万人の作業員を要したという。あまり知られてはいないものの、その規模や困難さでは黒四ダム大町トンネルに肩を並べるか、あるいは黒四より上かもしれない。

19ものトンネルがあるわけだが、僅かな覆道を挟んで全長3kmを越えるようなトンネルがいくつも連続するような場所もある。走っている者にとっては関越トンネルを抜けたらすぐに恵那山トンネルがあるようなものである。

この常識外れの道は1957年に完成しており、当時としては明らかにオーバーテクノロジーであった。そのため、多数の横坑や電気室を設けることでトンネルの維持を図っている。おまけに、連続する長大トンネルの中でも急カーブ、急勾配、勾配変化、信号機付交差点と何でもありの世界である。

なお、こんなふざけた道を通りたくないという御仁のためには、24km急カーブの連続という迂回路もあるので安心していただきたい。

ちなみに、この道の傍には奥只見丸山スキー場という秋スキー、および春スキーのメッカが存在する。なんで冬がないかというと、あまりにも雪が積もりすぎるせいで冬のほとんどの時期は閉鎖するという、実に新潟県らしい理由のためである。

佐渡外海府と海上国道編集

 
海府大橋が跨ぐ大ザレの滝。橋の高さは50m以上、さらにそのすぐ目の前に落差70mの滝が連なる。海岸から高さ120m以上の絶壁が聳え立っていることが分かる

佐渡島とて例外ではない。とくに日本海に直接面した佐渡の北西側にある外海府道も数奇な運命を持つ道である。1913年から工事が始まったのだが、入り組んだ海岸線から直接聳える山肌に道を通すことは、当時の技術力では叶わなかった。随所随所で工事を進めたが、途中幾多の不況や戦争で工事を中断せざるを得なかった。急斜面を九十九折で強引に登る「跳坂」と、大きく切り込んだ沢を跨ぐ「海府大橋」が完成して全線が開通したのは1964年である。実に半世紀以上を経てようやく完成した道なのである。

ちなみに佐渡島には国道350号というものが通っているが、その一部区間はカーフェリー利用という海上国道である。なにも筆者は海上国道を自慢するつもりはない。日本に27区間(そのほとんどは東京湾伊勢湾瀬戸内海といった場所にある)もあるものだし。

だが念のため補足しておく。新潟県の沖合いは、冬は大抵波高3~5m、高いときには8mに達する。そんな場所を通るカーフェリーであるが、非常に高い就航率を誇っているという。そういえば与那国島に向かう船は大変揺れるために「ゲロ船」という異名があるらしいのだが、この佐渡汽船のカーフェリーも、忍耐強い新潟県民以外の者が乗ったら同様の名をつけたくなること必定であろう。

新潟バイパス編集

正確に言えば新潟西バイパス、新潟バイパス、(雪が)しんしんバイパスに分けられるがいちいち分けるのがめんどくさいので新潟バイパスと呼んでいる。新潟市内のエクストリームスポーツの名所。制限速度は一応70km/h(新潟西バイパスの一部区間は80km/h)なのだが直線、異常に高規格な道路なので普通に100km/h以上で走行する車が後を絶たない。

しかも全区間合計で40km近くあるのに全区間無料という太っ腹。そのおかげで日本海東北自動車道が過疎化している。

北陸自動車道から降りてきた人は高速道路が続いてきていると思っているので、「ここは一般国道スピード落とせ」の看板があるが誰もそんなことは気にしちゃいない。いやむしろ高速道路より高規格だろ!

高速道路並みに高規格な道路でしかも無料なので全国有数の交通量である。

関連項目編集

  • 青の洞門:大分県の手掘り隧道として有名だが、こんなの新潟県にいけば幾らでもある。
  • 箱根関:天下の険。でも雪は降らないし道もそこそこ広い。

外部リンク編集