司馬遼太郎
司馬 遼太郎(しば りょうたろう)1923年~1996年とは、「トロール人形版 大木凡人」の異名をとり、死後もなお膨大な信者を保有する歴史小説家の泰山北斗にして太閤豊臣秀吉の生まれ変わり、そしてその呪縛を逃れた人々にとってのため息の原因である。前世の秀吉同様、人を騙す術、人の心を掌握する術に精通しており、間抜けな大衆が喜びそうな内容の妄想を次々書き上げて人気を博し、後に「司馬史観」と呼ばれる大衆にとてつもなく受け入れやすい物語風の歴史観を作ったことで知られる。
あわせて、坂本龍馬とかいう、幕末にちょっと活躍した高知生まれの変人の認知度を世間一般において飛躍的に上昇させまくったおかげで、一介の浪人が大河ドラマご用達の日本の英雄にまで昇華。いつの間にか寝小便小僧が完全無欠の人物になってしまった。もっとも、詭弁を弄しまくって民衆をだまして成り上がった秀吉はともかく、何故司馬がそこまで龍馬を高く評価していたのかは、未だに謎である。
経歴編集
幼年時代その1編集
天下人に登りつめながらも晩年は疑心暗鬼に取り付かれ、秀頼を頼むと大名達に哀願しながら死んだ豊臣秀吉は、それから4世紀ほど絶ったころ、大阪に生まれ変った。その生まれ変わりこそが福田定一、後の司馬遼太郎である。
彼は、生まれた時から前世の秀吉としての記憶を継承していた。生まれて始めて発した言葉は「俺は秀吉の生まれ変わりだ!」であった。少年時代も度々周囲の人々に自分が秀吉の生まれ変わりである事を吹聴していたのだが、周囲からはキチガイ扱いされ鼻で笑われるだけであった。屈辱に耐えながら、彼は必ず自分が秀吉の生まれ変わりである事を世間に認めさせてやることを誓った。そして、歴史小説家になり、秀吉の生涯を克明に書き綴ることで、自分が秀吉の生まれ変わりであることを認知させようと発心したのである。
- 余談だが、以上のような文章を、もしアンサイクロペディア以外の場所で読んだ場合、読者はどう思うだろうか。バカ、変人、妄想など様々な言葉がその思考内に駆け巡るだろう。しかし、果たせるかな、文章という人類の培った長年の技術の積み重ねは、このような信じがたいものを信じさせる力を持っているのである。以下の文章を最後まで読んだ段階で、筆者は文章というものの持つ恐ろしさ、愚かしさを、読者と共に考えてみたい。
幼年時代その2編集
少年時代に彼が歴史家を志すきっかけとなる出来事がもう一つあった。秀吉の記憶を継承していた彼は、自分(秀吉)が死んだ後、家康が自分の哀願を反故にして豊臣家を滅ぼした事を知り、激怒した。そして家康への復讐を誓ったのだが、家康はとうの昔に死んでおり、徳川幕府も消滅して久しい。だが自分としては何が何でも家康に報復してやらねば気が済まない。試行錯誤の末、歴史小説を執筆し、その中で家康をケチョンケチョンに貶し、世間に家康に対するマイナスのイメージを浸透させることで、家康への報復を果たしてやろうと画策、歴史小説家を本格的に志すようになる。
- 余談続く。このような意識を持つにいたった原因の一つに、大阪という町の持つ、強烈な反中央の意識があることは間違いない。実際に、大阪在住の多くの人間に見られるどんな些細な理由でも中央をけなすという精神は、古くは判官びいき、新しいところでは阪神ファンといった形で世の中に根付いている。
青年時代編集
青年時代、彼は学徒出陣に巻き込まれる形で軍に徴兵される。兵庫県にあった戦車第19連隊に所属し、満州まで赴いている。秀吉の記憶を継承していた彼は、秀吉がたどり着くことが無かった満州の地に、一兵卒としてたどり着くことになる。
- まったくもって余談だが、晩年に二度にわたって朝鮮に侵攻した秀吉であったが、実際は日本から出たことは一度もないので、対馬海峡を渡り朝鮮半島に到達した段階で彼は前世を上回る偉業を達成したことになる。
壮年時代編集
戦後は新聞会社に勤務しながら執筆活動を開始し、巧妙な文体と重厚なストーリー構成が好評を博し、たちまち人気作家となった。彼の手がける分野は古代から近世、果ては世界史に至るまで広く及んだが、そのいずれの作品においても、徳川家康に対するマイナスイメージを読者に浸透させるため、主人公と家康を比較させたり、家康の鎖国の所為で日本の発展が遅れたとかあちこちに書きこむなど、工夫をこらしたネガティヴキャンペーンを行った。同時に自分の前世である秀吉については露骨すぎないほどの礼賛を行った。効果はてきめんであり、馬鹿な大衆は家康への悪印象を抱かされ、秀吉を英雄と称賛するようになった。しかし、誰一人として、司馬を秀吉の生まれ変わりとは認めてくれなかった。
- どうにかこうにか余談だが、彼がこのような行動を起こす以前、家康の生まれ変わりである山岡荘八なる人物が、勝手に家康を理想的な人物、日本史においても特1級の大人物であると誇示しまくった物語、「徳川家康」を発表。大ベストセラーとして売れに売れまくったという事実が存在している。このような形で、1人の人間によって歴史的人物の評価が入れ替わるような状況を彼は憂えていた。
老年時代編集
戦後40年を経て、特定アジアの連中が勢いづいてくる1990年代、秀吉を出来る限り英雄扱いしない方が賢明だという風潮が醸成されはじめる。司馬の熱意ある執筆活動も、時流を止めることはできなかった。そして相変わらず、司馬を秀吉の生まれ変わりと認めてくれる人は、誰もいなかった。憔悴した司馬は1996年に世を去った。
- ありゃこりゃさっさ余談だがほいさっさ、このような短い文章で、彼の生い立ちをつかもうとするならば、まず最初に、間違いであることを自覚し、どう、間違うかを考えるべきである。秀吉の生まれ変わりを信じるもよく。アンサイクロペディア全体を信じるもよし。そう、嘘を信じるというのは、そのまま本当につながる可能性を信じることにもなるのだから。
- あぁ、そう思わせてしまう文章の力よ。そう思ってしまったか弱き精神の持ち主よ。ここに思想はなく、ただただそう思わせる技術だけであるのに、なぜ、あなたはここまで読んでしまったのですか。実に、実に恐ろしい・・・。
作風編集
司馬はある程度年齢を重ねた人間なら誰でも感染する昔はよかった病を知悉しており、近代小説を執筆する際は、客受けを良くする為、「明治・大正はよかった、昭和になってから日本は腐った、それで敗戦した」という史観を土台に作品を書き上げた。司馬のこの意図は見事に的中し、とりわけ「坂の上の雲」などは大ヒットした。
司馬史観編集
司馬遼太郎が自らを権威たらしめんとして、歴史的事実の裏付けをさも自らが史料を見付け出したが如く手前勝手に脳内で生み出し、それを提示することで、「さすが司馬遼太郎! 俺たちに見つけられない事実を平然と見つけてみせる、そこにシビれるあこがれるゥ!」と大賛辞を受けるべく編み出した技である。
しかし、それは史学が進んでいなかった昔だから通用した事であった。司馬の死後、歴史学がどんどん進んでいくことで、司馬の歴史観の偏重や、そこからくるフィクション、並びに朝鮮人大好きっぷりなどが次々と露呈してきており、史学界は御蔭で大惨事である。
肉が大好きなのか、自分のお気に入りの出身武将の土地は肉汁が滴るほどの脂身を持った土地に肥えてくる。一方家康に纏わる三河の国は商業後進国で純農地域、江戸は寂れた寒村で関東地方は痩せ地になり、犬も食わぬ絞りカスのようになるらしい。この点は梶原一騎のビフテキとパスタに通づる思い入れである。
よって「司馬史観」は今や、「司馬私感」や「司馬史姦」、もしくは「司馬思韓」などと、司馬だけにしばしば 批判または揶揄されており、21世紀を迎えた今日でもなお司馬史観を盲信しているのは犬HKと、爆笑問題の太田光くらいなものである。
主な作品編集
- 白い歓喜天
- 処女作が歓喜天というのは、先生、何処まで狙ってのことですか。
- 功名が辻
- ドラマ版は原作レイプ…と思いきや、晩年の一豊や六平太の扱いは改善されていたりする。千代を反戦主義者にしたのはいただけないが。
- 坂の上の雲
- 普通の海軍には興味がなく後にオカルトに走った変態参謀の秋山真之、その兄にして秋山澪の高祖父でもある戦闘バカの秋山好古、そして三菱の創始者岩崎弥太郎という裏の顔を持つ正岡子規の3人を中心に日露戦争を描いた戦記物語。
- 専制国家は必ず滅ぶはず、ロシアが自滅したのです←結論
- 新史太閤記
- 自伝というのがいかに痛いモノになるかという典型。内容は大本営発表に匹敵する虚飾が散りばめられている。
- 徳川家康に関わる諸作品
- 主人公である『覇王の家』を始めとして、『関ヶ原』『城塞』で主要な登場人物となっている。悪口は筆が進むのか実は司馬作品で最も登場した人物である。その為、逆に「司馬(ひいては豊臣秀吉)は家康にツンデレであったのでは」という新説が発表されている。
関連項目編集
この項目「司馬遼太郎」は、手抜き状態のため発狂寸前です。正気に戻すかもっと発狂させてください。 (Portal:スタブ) |