伊藤博文

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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本でも有数のスーパーエロジジイである。

大日本帝国の初代総理大臣にして日本を元祖金王国に変えた政治家であり、暗殺されたという功績を残した人物でもある。 かつて千円紙幣の肖像に採用されたことから、日本中にその名が知れ渡った。

晩年のお写真

概要編集

  • 孕ませ松方と双璧をなす好色魔王。
  • 女体盛り発明者として世界中に知られている。
  • また、日本でカーセックスを行った最初の人物でもある。
  • 幼名は伊藤俊輔だが、菊池俊輔中村俊輔とは関係ない。ゆえに、特撮、アニメ、ドラマなどの作曲は苦手で、サッカーは下手である。
  • 無類の女好きで、伊藤と女がすれ違えば「あ〜れ〜」と言う悲鳴が聞こえる事は日常茶飯事であったとか。無論盗撮セクハラ痴漢覗きや援助交際なども毎日やっていた(本人曰く「セクハラも日課」)。しかしこんな変態犯罪者でも日本の初代総理大臣になれるんだから世の中何が起こるかわからない。つまりこの先田代まさしが総理大臣になったりミラーマンが日本の経済の救世主となりうることも十二分にありうるのである。ゆえにアンサイクロペディアンはこういった変人をとにかく賞賛している。やがて彼らがニュートンベートーベンのような偉人になると信じて。曽孫の伊藤誠も彼の血を引き、立派な女たらし+ヘタレに育っている。

生涯編集

 
松下村塾塾生時代の写真。この頃から複数の女性に手を出していた。これが曽孫の伊藤誠へと遺伝していったのである。
  • 長州藩の生まれであり、生まれた直後に最初に触ったのは看護婦のおっぱいであった。さらにその後すぐに看護婦のスカートをめくっていた。
  • どん百姓林十蔵の小せがれで本名は利助といった。どん百姓であるにも関わらず、先祖は織田信長の家老林秀貞の息子の林通起だと、伊藤は言い張っている。目下のものに若いころの苦労話をしたり、身分制度を廃止したと言ったりしながら、由緒正しい武将の子孫を自称するのは、板垣退助(乾猪之助)、木戸孝允(和田小五郎)などの他の維新志士と同じである。
  • 12歳の時、借金のカタに丁稚奉公に出された。伊藤は様々な雑用を言いつけられ、特にオカマをほらせるのは重要な任務であった。まだ親元が恋しい年ごろにも関わらず、十蔵が全く借金を返さないため、仕事を辞めることができなかった。また、見習いの名のもとに報酬は一文も出なかった。伊藤は仕方なく商品を横流しして酒を飲んだり夜鷹を買ったりした。女は穴が開いていれば何でもいい、という後年の伊藤の性格はこのころ培われた。
  • 子供の頃は多数の女子(勿論年上年下問わず)のおっぱいケツをさわったり、スカートをめくったりパンツを脱がせたりetc...等を毎日行い、有頂天な変態行為の常習犯として悪名が高かった。更生すべく両親によって吉田松陰先生の松下村塾に入れられ教育を受ける。その結果それなりに知的な人にはなったみたいだがセクハラ気質は全く治らないどころかますます酷くなっていき、松下村塾のクラス分けでも伊藤のクラスには必ず女子を入れないように考慮された。伊藤は差別だと言って松陰に抗議したがブチ切れた松陰にタコ殴りにされて病院送りになった。しかし病院でも看護婦のケツを触ったりするなどセクハラを繰り返していた。
  • やがて十蔵が水井武兵衛というやっこ(奴)の養子になったため、伊藤もやっこになり、丁稚の身分から解放されたが、やっことは武士のアウトソーシングであるため、あいかわらず足軽たちにオカマをほられ続けた。
  • さらに、数え十四歳の時、義理の祖父の武兵衛が伊藤弥右衛門という足軽の養子になったため、足軽のひ孫という身分を得ることができた。たかが足軽の家族になるためにこのような苦労をする人間もいるものである。
  • 数え十七歳の時に密航を企てて幽閉中だった吉田松陰の弟子になり、久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・井上聞多などの同門となった。どん百姓のこせがれが思いもかけず塾で学問できるようになったが、師が師であり、先輩が先輩であったため、授業内容はテロリズムだけだった。伊藤が初めてまともな学問を教わったのは明治15年にヨーロッパを訪問した時である。
  • 伊藤の維新志士としての最初の仕事は直目付・長井雅楽の暗殺だったが、首謀者の高杉晋作の上海視察で取りやめになった。これにもめげず、伊藤は品川御殿山の英国公使館を焼き討ちした。この成功で伊藤はパーサクのアビリティを身につけ、国学者の塙忠宝を和歌の会からの帰りに暗殺した。
このとき、忠宝の友人である歌人の加藤甲次郎が「おいわけえの、やめなやめな。刑務所に入れられたらつまんねえぜ」と仲裁したため、「うるせえ、人が尊王攘夷の実を挙げるために命がけになってるのに、のんきに和歌なんか詠んでんじゃねーよ。非常時をなんと心得るか」などとわけのわからないことを叫んで切り殺した。伊藤がこのように文化人を虐殺してのし上がったため、右翼ややくざが自らの愛国心を証明するため、文化人を襲撃する風潮が生まれ、後藤忠政は伊丹十三を襲って全治三カ月の傷を負わせた。
  • 長州征伐戊辰戦争では高杉晋作奇兵隊に参加して各地を転戦。その一方で地方の女と行為に及んだり捕虜にした敵軍の女を慰め者にするなど問題行為も目立ち奇兵隊の風紀を乱しまくった。結果伊藤は高杉によって一時期縄で縛られ謹慎処分を受けた。縄で縛られたせいでオナニーも出来なくなった伊藤は見る見るうちに元気を失い枯れ木のように痩せこけてしまったが、彼を心配した一人の女性が縄をこっそりほどいてあげた瞬間にその女性に襲いかかった。伊藤は全く反省していなかった。
  • 明治維新大日本帝国を樹立すると、兵庫県知事、参与、初代工部卿、外国の女といいことするために身に付けた堪能な英語の語学力を買われての外国事務局判事などの様々な要職を歴任し、その地位にものを言わせてみだらな行為を繰り返した。
  • 天皇睦仁に「女官を手込めにする」という悪い遊びを教授した張本人である。ただしこの遊戯を天皇が愛好したかどうかについては定かではない。
  • 征韓論争では板垣退助から「外国の女ともっとやりたいだろ?」と言葉巧みに説得されて征韓論に賛成しかけるも大久保利通から「なりふりかまわず女を犯すような野蛮人には女は寄ってこない」と思いとどまるように言われ伊藤は女に好かれる為にもジェントルマンたるべしと決意し大久保派に回った。
  • 大久保が暗殺されると「大久保さん、弄んだ女から逆恨みでもされたの?」と不謹慎な発言をし大久保の遺族から顰蹙を買った。その後は日本の指導者の一人として辣腕を振るい、ナニも振るいまくった。その後憲法制定のためにヨーロッパに渡ってついでに欧州美人達とヤリまくったが性病に感染してしまいブラックジャックの治療を受けたがヤリ○ンである伊藤に性病程度など全く脅威に足るものではなくすぐに回復。
  • 大日本帝国の初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を制定した。この憲法の制定により彼の威厳や神聖さはいっそう強くなり「やったぜ!これで女を自分の思う通りにア〜ン♥♥できるぜ!!」と喜んでいた。なお、憲法の詳細については後述。
  • 日露戦争ではロシア女の方がイギリス女より綺麗だと主張して日英同盟に反対したが、イギリスの超美人の写真を見せられてまあ英国人もいいよねと曖昧な立場を取った。
  • 晩年は耄碌してしまい手当たり次第に女に襲い掛かるようになった為危険視された結果生物兵器として最前線に追放、もとい投入され、韓国に侵攻して現地の女をヤリまくった。これは従軍慰安婦の先駆けとも言われることからも分かる通り伊藤は韓国人の憎悪と危機感を煽り暗殺のターゲットとなったが、絶倫魔人である伊藤を暗殺するのは容易ではなく、困った韓国は松永久秀を雇って伊藤を暗殺してくださいと依頼。久秀は若作りして韓国人の青年安重根と名を偽り伊藤を近距離から狙撃して暗殺した。しかし死亡が確認されてから30分以上も伊藤の男根がピクピクと動いていたと言われる。ちなみに安重根こと久秀は現行犯逮捕された。日本政府は特に何も規定せずに国の対当を殺傷したとして安重根こと久秀及び暗殺を依頼した韓国政府の関係者を殺害した。
  • 韓国の王族・貴族・上流階級の子女にも当然手を出しており、当時から現代に至るまで韓国の上流社会には実は伊藤博文の血が入っている人物が相当数いると言われている。

大日本帝国憲法編集

1889年に伊藤が制定した憲法。伊藤は自らの手で制定する事によって彼の威厳や神聖さを上げ、あらゆる女性とア〜ン♥♥しやすい環境にするのを狙っていた。

万世一系の天皇、これを統治す」「天皇は神聖にして侵すべからず」の憲法をごり押ししたので、日本を金王国に変えた政治家であるといって言い過ぎではない。金王国を樹立した金日成は、尊敬する人物に伊藤博文を挙げている。大日本帝国を金王国に、天皇を将軍様に置き換えると、「偉大なる将軍様、これを統治す」「将軍様は神聖にして侵すべからず」で、全く同じである。

まあ、公の内容としてはこんな感じだが、伊藤は女性にどんなア〜ン♥♥をしても構わないという内容が何故か存在しない。これは憲法制定以前から、伊藤は女性とみだなら行為を行っても良いという事が政府内の暗黙の了承で決まっていた為である。

主な逮捕歴編集

  • 明治10年11月2日:好色変人大綬章
  • 明治17年7月7日:大痴漢
  • 明治22年2月11日:触一等猥褻痴呆大綬章
  • 明治28年8月5日:大変態卑触大綬章 変態侯爵
  • 明治39年4月1日:超変態神聖卑猥絶対痴漢王 痴漢公爵
  • 明治40年9月21日:ネ申 昇格
  • 昭和38年11月1日:千円札肖像画

関連項目編集

  この項目「伊藤博文」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)
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