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フィリピン国鉄

フィリピン国鉄(-こくてつ)は、フィリピン政府が首都マニラ近郊で運営を行っている鉄道耐久試験用の国有鉄道路線である。実験の傍ら、地元住民のために旅客営業を実施していることでも知られている。

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「フィリピン国鉄」の項目を執筆しています。

目次

実験線の概要編集

 
マニラの南の玄関口、シブヤン駅。手前のライラック号は、週6回小樽や新潟へ運行される。殺虫剤を満載しており虫が大嫌いな人にはおすすめ。

フィリピン国鉄は1875年、この地を当時植民地としていたスペインが敷設した。初めは単なる鉄道路線であり、その後宗主国がスペインからアメリカに変わっても、変わらず運営されていた。しかし第二次世界大戦終戦とそれに伴う独立後、自動車社会が到来するともともと規模がそれほど大きくなかったフィリピン国鉄の意義は低下する。フィリピン国内では鉄道不要論も持ち上がるに至り、政府は鉄道を残すための方法を模索し始めた。

その中で採用された案は、路線を可能な限り荒廃させ、鉄道車両がどれだけ過酷な環境に耐えられるかを図る試験場にしようというものであった。これならば資金を要さず、むしろ維持費用を減らしながら鉄道を存続させることができ、なおかつ世界の注目を集めることができるに違いないと考えたのである。

その結果、フィリピン国鉄は1980年代以降、急速に荒れ果てていくこととなる。マニラの近郊区間には線路を不法占拠して車両の縁ギリギリまでスラムが立ち並ぶようになり、また土床はほぼ消失、レールも一部が寸断されたり外れかけた状態で放置されるようになった。更にレールが熱で曲がろうとも、住人が勝手に鉄材としてひき剥がしてしまおうとも、気にせぬようになっていった[1]

また車両に対しては子供が投石を行うのが恒常化した[2]。結果としてどの車両も投石の損傷で凸凹になり、無くなった窓ガラスの代わりに動物輸送車よろしく金網を貼るようになった

更に線路を沿線住民が占拠するだけでなく、自作のトロッコ[3]を勝手に走らせて料金を徴収するという商売敵にまで成長した。当然ながらダイヤグラムなんてものは崩壊し、列車の運転士は常にスラムやそれらトロッコとの遭遇・接触を警戒して運転する必要に迫られ、日常的にスリルを味合うこととなった。

自然現象を積極的に活用することも考えられた。フィリピンは東南アジアの国で局地的な大雨(スコール)がよく降る。そこで政府は線路の水捌けを悪くした。そのため線路に大量の雨水がたまるようになり、更には流材があちらこちらから集まって線路の上をしばしば塞ぐようになった。列車は先が見えないレールの上を、時折なんかの浮遊物や沈殿物に遭遇するリスクに迫られて運行することを強いられるようになった。

かくして史上最強(最凶?)の実験施設が出来上がったのである。

実験線の現状編集

完成した実験線は旅客営業を続けたまま、諸種の実験に供されるようになった。アメリカからはGM社製のディーゼル機関車が、またインドからは客車が持ち込まれた。しかしながらインド製の客車は耐久試験へ課すにはまだ時期尚早だった模様で、まもなく日本から持ち込まれたJRの12系・14系客車にバトンタッチした。日本も自国の誇る車両の耐久性を一度試したかった模様で、かつて数多く製造された頑丈な国鉄車両の中から、余剰となったものを持ち込んだのである。

けれどこの実験線は想像以上に苛酷であった。2004年には住民による線路剥がし実験で列車が脱線転覆し、2007年には整備不良橋の耐久実験中に台風が到来して橋が崩壊した。そして車両持ち込み実験に協力する国も減り、もともと少なかった実験費も1990年代末辺りからさらに削られるようになった。結果としてその規模は年々縮小し、フィリピン国鉄はいつしかマニラ近郊の一部区間を運営するのみとなった。

12系・14系客車も、「エアコンなんて贅沢品は耐久試験に相応しくない」と使用停止にして走らせた結果、サウナ状態となった車内に乗客が音を上げ、固定窓[4]の14系は実験の続行が不可能になり、全車スクラップにして鉄クズ屋に売却。12系も障害物との接触や廃止区間に置き忘れてくるといったトラブルに見舞われ、わずか数両にまで減少してしまった。しかしその生き残りは、車輪と連結器以外の全てのメカが作動停止しながらも、ゴミだか錆びだかデザインだかわからない迷彩塗装を纏って走行を続けている。流石鉄道王国日本の車両である。

方針転換?編集

新世紀を迎えても相変わらず世紀末状態で鉄道界を震撼させ続けてきたフィリピン国鉄であったが、2000年代後半になると流石にマンネリ感が漂い始めた上、あまりに荒廃しすぎていて参考にしようがないという声も出てくるなど、再び関心が薄れてゆくことに危機感を抱くようにもなっていた。実験に協力する乗客もほとんど居なくなり、最低限の運行費すら賄えなくなってきていたことから、ここにきて当局は方針を180度転換する。 すなわち、鉄道は瀕死の状態からどこまで復活できるかという実験である。

それは、残存区間の駅を徹底的にリフォームし、韓国から新品の通勤型ディーゼルカーを購入して乗客を呼び込むという本格的なもので、実行に際しては今までの放置が嘘のように多額の資金が投入された。施設がまともになるにつれ、ダイヤも使いやすいように整備されていった結果、利用を再開する乗客は確実に増加しており、「耐久試験場」は「普通の鉄道」へと急成長を遂げた

…かと思いきや、国自体の財政難のためか、ディーゼルカーは2009年に5編成が投入されたきり一向に増加せず、線路の整備も次第にうやむやになってきている。更に、リフォームされた駅にも十分な長さのホームが無いといった欠陥が発覚し始め、なし崩し的に耐久試験が再開しているというのが現状である。下手に乗客を集めてしまったために、時間帯によってはかなりの混雑が発生しており、「むしろそれを利用した詰め込み実験を行うことが真の目的なのでは?」という噂も囁かれ始めている。

2010年9月には、再び日本のJR東日本に対して中古車の譲渡を要請し、寝台特急北陸の廃止で不要となった14系寝台客車と、新型車両に置き換えられ同じく不要となった203系通勤型電車キハ52キハ59形気動車を入手した。

しかし、まともに使いこなせたのはキハ52形だけと言っても過言では無かった。キハ59形は日本時代に流線形にするなどの改造を受けたイベント用車両であったが、こんな怪しげな路線に鉄道の旅を楽しみに来る物好きなどそうそうおらず、維持費ばかりが嵩むと半年足らずで離脱[5]。14系は前回の失敗を踏まえ、エアコンを稼働させたまま運用しているものの、整備に手こずっているのか車庫に放置されている車両も多い。203系に至っては「そもそもフィリピン国鉄には架線が無かったので客車に改造して使用する」という無茶な使用計画を立ててしまったゆえ、部品の調達や設置、運行ノウハウの確立全てが手さぐり状態となった。

2014年現在、203系の運行がようやく軌道に乗りかけ、12系の置き換えにこぎつけたものの、「発電機が客室のド真ん中に置いてある」「防音壁はあるが無意味」「性能不足で冷房が効いてない」「なんか雨漏りしてきた」等の報告が相次いでいる。そのレベルの改造すら止まったという噂もあり、結局いつものフィリピン国鉄だったという評価に至りそうな今日この頃である。

脚注編集

  1. ^ 2本3本と敷いていたはずの線路がいつの間にか単線になっているということもザラだが、当局は「まあ1本使えりゃいいか」と楽観的で、むしろ「いかに困難なすれ違いを成功させるか」という新たな実験に挑み出す始末である。
  2. ^ 当然ながら、これは子供に対する教育の一環として政府が推奨したのではないかと噂されている。成長して大人になっても習慣となって続けるので、量は年々増える一方である。
  3. ^ どこから調達してくるのか、モーターが付いていたりするので侮れない。列車の運行がアレなので、短距離の移動ならむしろ彼らの方が頼れるとの話である。
  4. ^ 通常ならばすぐさま割ってしまうところだが、この車両だけは耐熱試験のため断固として当局が許さなかったらしい。
  5. ^ ちなみに日本時代の愛称は「こがね」。金食い虫そのものな存在と認識しつつ送り込まれた、確信犯であった。