スコットランド
スコットランド(蘇格蘭、Scotland)とは、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国における頭痛のタネである。
歴史編集
太古編集
この地に人類(いわゆるピクト人)が棲みついたのは紀元前10世紀ころと言われており、人類で初めての液体専用容器(ビーカー)が発明されたのは、彼らの考案によるものであると自称している。その命名の根拠は「Pickter(ピクト人に由来する物)⇒peaker(波々と満たされる物)⇒beaker(単なる訛り)」とされており、他の文化圏に似たようなものが既に存在していようが何だろうが、この細長い液体専用容器はピクト人すなわちスコットランドが起源であることは言うまでもない、と彼らは主張している。が、せっかく発明されたこの液体専用容器に満たすべき適切な液体が、まだこの地域には存在していなかった。さしあたって水を満たしてみたものの(まだ陶製技術が未熟であったために)粘土の成分が混入してしまい、あんまり美味しくなかったために人々は「やっぱり水は、手で掬って飲むのが一番」と結論づけた。また、今度は殺した捕虜や生贄の血(彼らは勇敢にして獰猛な種族であった)を満たしてみたものの、やっぱり血液に特有な鉄っぽい風味は鉄っぽいままであり、あまりグビグビ飲めた代物ではなかった。かくしてビーカーに満たすべき「グビグビ飲めて、かつグビグビ飲みたくなる液体」を求めることは、スコットランド人(ピクト人が滅びた後もそこに住みついた人々)にとって約2000年の長きにわたって課せられた永遠の宿題となったのであった。
ちなみに、この民族の命題とも言うべき「ビーカーに何を満たそうか問題」はおよそ10世紀、マクベスの時代に発達・洗練された発酵技術のおかげでモルト・ウィスキーが発明されたことで見事に解決された。陶製技術も釉薬(うわぐすり)の伝来によってあの陶器特有のすべすべした肌触りが実現したことによってのど越しも爽やかなものとなり、ついに美味しくて、かつグビグビ飲める完全なる液体を発見することに成功したのである。これこそがスコットランド人が世界に残した偉大なる功績であり、ヨーロッパ人がいまだに重くて割れやすい陶製ジョッキで酒(現代ではビールという素晴らしい黄金水さえも、その選択肢として用意されている!)を飲むのは、太古の昔からDNAレベルで刻み込まれた味覚センスがその喉越しを好むことに加え、ピクト人へのリスペクトを忘れないためであると言われている。
古代編集
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かくして(この当時はまだ空っぽであった)ビーカーをぶら下げながらウロウロしていたピクト人はブリトン人によって滅ぼされた(これが現代のスコットランド人の祖先とされている)が、間もなく古代ローマ帝国の侵攻を受けた。ローマ軍の元帥であった皇帝プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスは北海特有の荒波にもまれた結果、船酔いによってせっかくのビーカーに自分の吐瀉物を満たしてしまい、怒り狂ったスコットランド人は彼らの軍勢をことごとく殲滅、命からがらブリテン島の南部まで逃げ延びたハドリアヌスは、彼らを封印するために万里の長城を築き上げることでどうにか身を守ることに成功した。これが有名なハドリアヌスの長城であるが、すべて木造であったために腐ってしまったり、ウィスキーの醸造樽に使われてしまったため、現存していない。ともあれ、ローマ帝国当局の見解として「スコットランドは治める価値もない蛮族の地である」という負け惜しみを残して撤退したため、めでたくスコットランドの独立は守られたのであった。一方のハドリアヌスはえらく悔しかったらしく、死に際してこんな詩を残している。
- Animula, vagula, blandula (どこまでも攻めて行こう、世界の果てまでも)
- Hospes comesque corporis (我にひれ伏す筈だった、走狗どもに情けを垂れた)
- Quae nunc abibis in loca (しかし彼らは、飼い主の手を咬み砕いた)
- Pallidula, rigida, nudula, (ヤツは暗く、冷たく、曇った目で睨みつけながら)
- Nec, ut soles, dabis iocos…… (親しみ合うひとときもなく、すべては終わったのだ……)
かくして外敵を追っ払ったスコットランド人は大いに内輪ネタで盛り上がり、安心して殺したり殺されたりに明け暮れた。そんなひっちゃかめっちゃかな日々の中で、次第にルールが確立されるようになり、代々のスコットランド王にまつわる資格が正式に決定された。以下の条件を満たすことこそ、その者がスコットランドの偉大なる王として認められることとなったのである。
- スコットランド王たる者に課せられた鉄の掟
- 石の玉座(これをスクーンの聖石という)において即位を宣言すること。
- その際、先代の王をその手で殺し、その血を石の玉座にぶちまけること(血を神への生け贄として捧げることで、王位の安泰を祈願する)。
- その最期には、次の王となる者の手によって殺され、その血を石の玉座にぶちまけられる(これによって、王としての務めを完遂できる)こと。
ベッドの上(美女の膝枕付き)で死ねたらいいな、などという甘ったれた考えはスコットランドの王者にあるまじき怠慢であり、ひたすら殺し殺されて……という「流血の伝統」によってのみ、その正統性は保証される。そのため、その王が在位期間中においてどんなに悪政を布いた暴君であろうとも、その最期が凄惨であればあるほど、偉大なる王者として称えられる風習が生まれたのであった。
中世編集
そんな殺して殺されてを繰り返してばかりで、いつまで経ってもまとまらない万年戦国時代状態のスコットランドに、イングランドのウィリアム征服王が侵攻したのをきっかけとして、スコットランド王室はイングランド王室との政略結婚によって籠絡されたり反発してみたり、申し訳程度に戦ったり和睦してみたり……と、国境付近における一進一退を繰り返していたが、足ながエドワードおじさんが王位に就くや否や、それまでの懐柔姿勢(歴代君主比)を一変させて一気にスコットランドを攻略し、「スコットランドのものはイングランドのもの、イングランドのものはイングランドのもの」と高らかに宣言、そのまま併呑してしまった。それまで歴代の王によって継承されてきたかの血塗られたスクーンの聖石も略奪されてしまい、イングランド王の玉座の下に土台として敷かれることとなったが、これはスコットランドの完全なる征服の宣告と、イングランドに対する完全なる服従の要求を意味するものであり、愛国狂信的スコットランド人としては到底耐えがたい屈辱[不要出典]であった。
……と言っても、圧倒的なイングランドの軍事力を前に、ウォレスはスコットランド各地で仲間を集めてゲリラ戦を展開、蝶のように舞い、蜂のように刺す……というヒット・エンド・アウェイを繰り返してラウドン・ヒルの戦いやエアの戦いで勝利を収めながら名声を高めることでスポンサーと同志を集めることで勢力を拡大、ついにスターリング・ブリッジの戦いにおいて初めて真っ向勝負でイングランド軍を撃破することに成功、その功績をもって同志であり後ろ盾(表向きはイングランド王朝に与しながら、裏でウォレスのゲリラ活動を援助することでサボタージュを行っていた)であったロバート・ドゥ・ブルース(後にスコットランド王に即位、ロバート1世となる)から騎士に叙任され、平民出身でありながら「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」の称号を与えられ、後々までスコットランドの国民的英雄として名を残したのであった。ちなみに、今でもスコットランド地域に住んでいる人々の多くは「Q.祖国の英雄は?」という質問に対し「A.ウィンストン・チャーチルだと? ……そんな葉巻をくわえたブタなんかより、偉大なるウォレスの方が、よほど俺たちの英雄に相応しい! 何度でも言ってやる、俺たちの祖国はあくまでスコットランドであり、いつでもグレートなんとか以下略王国から脱退・独立する覚悟があるんだ!」と息巻いているが、しょせんはネオナチの負け惜しみ[要出典]に過ぎない。
そんな大活躍のウォレスだったが、平民出身の彼が独立闘争の英雄としてちやほやされるのが気に入らないスコットランドの旧貴族階級はこぞってイングランドに加勢するようになり、ほぼ唯一の後ろ盾であったロバート・ドゥ・ブルースも、ウォレスがフォルカークの戦いにおいて敗北を喫すると、あっさり空気を読んで旗色を翻してしまった。かくして孤立無援に陥ったウォレスと愉快な仲間たちは間もなく捕えられ、形式的な復讐裁判を経て四つ裂きの刑に処せられた。バラバラになった手足はそれぞれ別の場所に晒され、スコットランド中に燻っていた反イングランド感情に対する見せしめとするつもりだったが、かえって独立闘争の機運が高まる結果となってしまった。そこですかさず空気を読んだかの裏切り者ブルースは反イングランドの旗印を掲げ、紆余曲折あったものの(一時は所領を追われ、一人逃亡生活を送る羽目に遭った)エドワード1世の死に乗じて勢力を取り戻し、スコットランドの独立が達成された。ブルースの謀反に怒り狂ったエドワード1世はスコットランド遠征に乗り出したものの途上で病死してしまい、息子のエドワード2世に対して「いいか、俺の遺体から煮出した骨を馬印に掲げて、必ずエディンバラ(スコットランド首都)を制圧しろ。ブルースの首級を挙げるまで、決してロンドンに戻ろうなどと思うなよ!」と遺言したものの、生粋の遊び人であった息子はそんな面倒な遺言などなかったこととし、さっさと撤退してロンドンでお気に入りの美女たちと遊び呆けた。そのお陰でブルースは国内整備を充実させることが出来た。かくしてスコットランドは一応の独立を取り戻すことが出来たのであった。
近世編集
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できることなら見ないでおいてあげて!!
その後も辛うじて独立国家としての体裁を保っていたスコットランドであったが、正統なる血脈が絶えてしまったためにイングランドから養子を迎えることになり、正統スコットランド王室はここに断絶してしまった。しかもその(表向きの)スコットランド王はほとんどイングランドに留まり、中にはスコットランド王でありながら一生涯スコットランドの土を踏むことなく過ごした者さえいる始末であった(それで仕方なくスコットランドは立憲君主制を採用、議会を開設することで国政を行うようになった)。そんな中で宗教改革やスコットランド内戦の荒波をどうにか乗り越えたものの、すっかり弱体化したスコットランドへ対するトドメとばかりに名誉革命が勃発、新教徒(プロテスタント)のクロムウェルによってスコットランドは制圧されてしまった。イングランド全権を帯びていると自称する彼の独裁政治によって王さえも勝手に挿げ替えられてしまうあまりの横暴に対してジャコバイト(反革命勢力)による反乱も勃発したが、結局のところことごとく鎮圧されてしまい、その報復として経済制裁まで食らってしまったスコットランド議会は抵抗を断念。1707年1月16日、議会の解散を宣言して正式にイングランドの傘下(グレートブリテン連合)に加わることとなったのであった。その時に失職した旧スコットランド議員たちに対して156,156ポンド10シリングの補償金が支払われ、これを156人いたとされる議員たちが山分けにしたため、旧スコットランド国民からは「あいつらは文字通りの売国奴だ!」として非難の声が上がったため、彼らはことごとく北アイルランドかイングランドに亡命した。
そんな中でも、ハイランド(highland、高地地方)と呼ばれた山岳地帯に棲みついていた(自称)ピクト人の末裔(正統スコットランド諸部族連合)は頑強な抵抗活動を展開し、しばしばイングランドの中央政府を悩ませたものの圧倒的な火力差をもって掃討されてしまった。それでもいまだその現実を直視できないテロリスト(当局による呼称)は、北アイルランドへと逃げ込んで独立運動を継続、その後グレートブリテン連合にウェールズ、北アイルランドが併合されて現在の「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」となってからは北アイルランドの独立派と団結してアイルランド共和国軍(Irish Republican Army、通称IRA、1922年-1969年)を結成、その後派閥抗争を経てオフィシャルIRA(1969年-現在)、IRA暫定派(1969年-現在)、コンティニュイティIRA(1986年-現在)、リアルIRA(1997年-現在)と分立して独自の闘争を展開しながら現在にいたっている。
が、現代社会を生きるリア充(一般市民)からしてみれば、そんな主張や活動などは国粋主義者の国粋主義者による国粋主義者のための無意味なたわごとに過ぎず、正直なところ「テロ活動うぜー」くらいにしか思っていない、というのが本音である。
現代編集
その後、第一次・二次の両大戦においては勇猛で知られるスコットランドの男の中の男たち(中でも特に勇猛果敢であるとして前述のハイランド人がスイス傭兵と並ぶ人気を誇っており、イギリス中央政府はハイランド人を優先して強制的に徴募し、同盟国に対する援軍として派兵した。その見返りとして高額の謝礼金が中央政府に入ったことは言うまでもない)はウェールズ人や北アイルランド人と一緒に過酷な戦場へと派遣されてイングランド人よりも低い待遇で酷使され、当然多くの戦死者が出たものの、遺族に対する保障は薄いものであった。そのため、イングランドに対する憎悪が日増しに募って行ったが、さしあたって目の前に迫ったナチス・ドイツの脅威を前にそんな事を言っている場合でもなかったため、ひたすらお国のために戦い続けざるを得なかった。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでどうにか戦争には勝てたからよかったものの、これで負けでもした日にはもはや民族運動を止めることはできなかっただろう……というのはチャーチルがつぶやいたかも知れない独り言である。
ともあれ、久しぶり(ほぼ史上初)の平和が訪れたこともあって、スコットランドは中央政府の搾取によって荒廃した国土(いっそ戦場になった方がまだ被害が少なかったかも知れないという考察は気のせいである)の復興と産業開発に乗り出した。が、いくら持ち前の漁業や造船業で日本などの海洋国家(=強力なライバル)を相手に頑張ったところでその収益はそのほとんどが中央政府に持って行かれてしまい、財政はジリ貧になるばかりであった。あまりの貧しさに耐えかねて独立を宣言したかと思えば1960年に北海油田が発見され、中央政府から「このまま加盟国でいるなら、北海油田の権益の一部を分けてやらないでもないが、独立するなら当然やらん。もちろん、独立に際しては宗主国に対する独立賠償金を請求するからそのつもりで」と言われてしまい、経済の充実か主権の回復か……という究極の選択を迫られた結果、大人の事情を察してもらって経済を優先させたのは仕方のないことであり、いくら一部の狂信的国粋主義者が怒り狂おうとも、背に腹は代えられないのである。
そんな中、1979年に誕生したサッチャー政権がその公約通り「小さな政府」政策によってスコットランドの自治権を大幅に緩和し、1997年にスコットランド出身のトニー・ブレアが首相に就任すると1707年以来、290年間にわたって解散したままであったスコットランド議会を復活、その記念としてかつてイングランドに略奪されたままになっていた、かのスクーンの聖石も返還され、新しく任命されたスコットランド議会議員たちはジャコバイトの象徴であった白薔薇を胸に飾り、かの聖石にこう刻んだのであった。
〜 スコットランド について、民主主義
現在編集
スコットランドの将来をめぐって、様々な議論が起きている。残念ながらどれも収束の見通しが立っていない。
EU編集
EUのお陰でウィスキーなどをはじめとした特産品の輸出が好調だったのだが、Brexitのせいですべて台無しになったため、独立するのかしないのかをめぐって賛成派と反対派で果てしない熱戦が再発してしまった。
ウィキペディア編集
2020年8月、「スコットランド語版ウィキペディアにある多くの記事ではスペルミスなどがたくさんあって言語の質が悪い」という暴露情報がGoogleのお陰で拡散された。この発表以来、スコットランド語版ウィキペディアの存続について賛成派と反対派で言葉の暴力を伴う聖戦が勃発した。賛成派の市民団体は「SDGsアクションプラン2020」に基づき、スコットランド語版ウィキペディアを持続可能な方向に保全することを主張しており、Stay Home期間を設けて集中的に誤字脱字を訂正する市民活動を展開している。一方で削除主義者たちはこれらの言語ミスを荒らしと見なして一斉削除することを企画している。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。 後は適当に頑張って下さい。(Portal:スタブ) |
国歌編集
(たとえそれが渋々であろうと)グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国の一員である以上、スコットランドの国歌はイングランドと同じ『女王陛下万歳 (God Save the Queen)』であるとされているが、不羈独立の反逆精神に富んだスコットランド人がそんな押しつけられた歌などを黙って歌うはずもなく、あくまでもスコットランドはスコットランドであるとして、国歌には別の曲を採用している。有名なものとしては『スコットランドの花 (Flower of Scotland)』や『勇敢なるスコットランド (Scotland the Brave)』が歌われているが、これもまた独立の……というかもはや偏屈の域にまで達しているスコットランド人の気質から、地方によってエディンバラVar.やグラスゴーVar.、おまけにハイランドVar.などもあってそれぞれ音程や単語のアクセントにいたるまで異なっており、もはや別の歌と言っても差支えないほどのアレンジが加えられてしまっている。ちなみに、スコットランドの国花はアザミ(薊、Cirsium)であり、その意は「不用意に摘み取ろうと手を出すならば、何人たりともこの棘をもって必ずや激痛をもたらそう」という、国是となっている標語「我に仇なすものに報復なからざるべし (Cha togar m'fhearg gun dioladh)」の精神をいかんなく表したものであり、この『スコットランドの花』においても歌われているのはこのアザミの花である。
歌詞編集
- 『スコットランドの花』
- 作詞:ロイ・ウィリアムソン/作曲:ピーター・ドッヅ・マコーミック/訳:お察し下さい。
- 1番
- O Flower of Scotland, (おお スコットランドの花よ)
- When will we see (お前を愛でるその時に)
- Your like again (お前への愛は永遠となる)
- That fought and died for (想いを胸に戦場へ発つ)
- Your wee bit Hill and Glen (決戦の丘にお前を思う)
- And stood against him (我に勇気を、戦うための)
- Proud Edward's army (仇敵エドワードを滅ぼすための)
- And sent him homeward (かくて勝利の暁には)
- Tae think again (お前への愛は永遠となる)
- 2番、3番
以下略。
これはかのバノックバーンの戦い(1314年)におけるロバート・ブルースの勝利を題材としたものであり、圧倒的な劣勢において大勝利を収めたスコットランド史上において数少ない黄金時代の記憶として、スコットランド国民に絶大な人気[不要出典]を誇っており、脳内統計によると国民の約41.156%がこの歌を国歌として支持しているとされている。平和と独立を獲得するための長い闘争の歴史と未来への希望が凝縮された歌であり、今後たとえ祖国が蹂躙されようと、何度でも立ちあがって武器をとり、自由と尊厳のために戦い抜く決意を示す、まさに国民の歌すなわち国歌たるにふさわしい歌なのである。イングランドの狗どもが、何と言おうと。
参考文献編集
- フランク・レンウィック『とびきり哀しいスコットランド史 (原題:Scotland bloody Scotland)』ちくま文庫(小林章夫 訳)
- 菊池良生『傭兵の二千年史』講談社現代新書
関連項目編集
- スコットランドと言えば……
- サー・ウィリアム・ウォレス
- ブレイブハート
- スコッチ・ウィスキー
- バグパイプ
- タータン
- キルト スカート(男性用)。
- スコットランド・ゲール語
- マーマレード - 発祥の地。
- グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国
- スコットランド国内の主要な都市
- ほか
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